戦後75年を迎えます。

皆さんは戦争に反対だと思います。

私も戦争に反対です。

ですので、憲法改正、憲法9条の2「自衛隊明記」に賛成です。

この点は、2019年6月に中野市にて講演させていただきましたが

憲法改正に賛成派も反対派も、目指すところ(戦争反対)は同じだと思います。

それは、戦後75年を迎えた今も、太平洋戦争の惨禍、教訓が後世に引き継がれているからだと思います。

本ブログでは沖縄戦を振り返りたいと思います。

 

1945年3月下旬から6月末まで約3ヶ月に渡る沖縄戦

12万人余りの沖縄県民の方が命を落とされました

ひめゆり資料館には

ひめゆり学徒隊240人(女学生、教師)が野戦病院(南風原市)の看護要員として動員され、負傷兵の看護、日本軍の敗北撤退と共に南部に撤退、突然の解散命令、日本軍に見放され飢えと米軍の砲弾の中で逃げ惑う様子、砲弾や自害等により命を落とされた方々、生き延びるも友と生き別れた悲しみ、自分だけ生き残ったという罪悪感に苛まれてきた葛藤などが記されています。

命を落とされた学徒隊136名、その8割以上の方々が1945年6月18日の解散命令の後に命を落とされたのです。

この時には既に沖縄本島のほぼ全てを米軍に制圧され日本軍は沖縄本島の最南端(伊原外科壕=現在のひめゆりの塔の辺り)まで追いやられていたのです。

しかし、日本軍は降伏することなく、解散命令により学徒隊を戦禍に放り出し、学徒隊や住民の保護について米軍と交渉することもなく、総大将が自害、程なく組織的戦闘行為も不能に陥り終了します。

学徒隊だった方の、もっと早くに戦争が終わっていれば…多くの友が死なずに済んだのに…悔しいとの言葉が印象的でした。

もっと早くに降伏することはできたでしょうし、降伏しない意味は乏しかったとの思いを禁じ得ません。

そもそも、沖縄戦に意味はあったのか、資料館には、本土決戦準備のための時間稼ぎと記されています。

しかし、米軍に、1944年7月にはサイパンを、10月にはフィリピンを制圧され、連合艦隊も壊滅し、石油、鉄鉱石の輸入ルートを絶たれた日本に、いくら時間があろうと、軍備を整えるだけの体力など残っていなかったと見るのが普通でしょう。

結局、天皇制を固持しようという日本政府が一日でも長く自分たちの権力を固持しようとしただけ、そのためだけに沖縄に多くの犠牲を強いたと思わざるを得ません。

アメリカらに禁油政策をとられ、開戦は難しい政治的判断だったとは思いますが、当時の日本とアメリカの国力の差を考えれば、戦争は1年が限度だったと言わざるを得ず、日露戦争時のような早期の戦争終結・和睦の戦略も外交努力もなく、根拠のない大和魂論によって3年半もの間戦争を続けた日本政府に憤りを禁じ得ません。

坂の上の雲(司馬遼太郎)には、戦勝は国民を狂気にし敗戦は理性を与えるとあります。

中国の軍事的台頭、アメリカの軍縮など、現在の国際情勢からすれば、日本は自立国家たるべく、アメリカに依存しない国防を構築していくべきだと思いますが、戦争の惨禍が再び起こることのないよう、敗戦による教訓を後世に残し続け真の民主主義を構築する、国民もその努力を怠ってはならないと考えます。

弁護士 臼井義幸