以下は、日露戦争、連合艦隊解散式において東郷平八郎大将が読み上げた訓示で、長文ですが、

『いかに平和な国家といえども、時として重大な危機に直面することがある』

と平時における心身の訓練を強化するよう教示しています。

 

 

「二十閲月ノ征戦己ニ往時ト過ギ我ガ聯合艦隊ハ今ヤ其ノ隊務ヲ結了シテ茲ニ解散スルコトトナレリ。然レドモ我等海軍軍人ノ責務ハ決シテ之ガ為メニ軽減セルモノニアラズ。

(中略)

而シテ武力ナルモノハ艦船兵器等ノミニアラズシテ之ヲ活用スル無形ノ実力ニ在リ。百発百中ノ一砲能ク百発一中ノ敵砲百門ニ対抗シ得ルヲ覚ラバ、我等軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザルベカラズ。

(中略)

過去一年有半、彼ノ風涛ト戦ヒ、寒暑ニ抗シ、頑敵ト対シテ生死ノ間ニ出入セシコト、固ヨリ容易ノ業ナラザリシモ、観ズレバ是レ亦長期ノ一大演習ニシテ、之ニ参加シ幾多ノ啓発スルヲ得タル武人ノ幸福比スルニ物ナシ。

(中略)

近世ニ人リ徳川幕府治平ニ狃レテ兵備ヲ懈レバ挙国米艦数隻ノ応対ニ苦ミ、露艦亦千島樺太ヲ覬覬スルモ之ト抗争スルコト能ハザルニ至レリ。

(中略)

神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力メ、戦ハズシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ栄冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ満足シテ治平ニ安ズル者ヨリ直チニ之ヲ褫フ、古人曰ク勝テ兜ノ緒ヲ締メヨト。」

 

(現代語訳)

「二十か月にわたった戦いも、すでに過去のこととなり、わが連合艦隊は今其の任務を果たしてここに解散することとなった。しかし艦隊は解散しても、そのためにわが海軍軍人の努めや責任が軽減するということは決してない。

(中略)

ところで、戦力というものは、ただ艦船兵器等有形の物や数だけで定まるものではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも左右される。百発百中の砲一門は百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当たらないような砲百門と対抗することができるのであって、この理(ことわり)に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実即ち訓練に主点を置かなければならない。

(中略)

過去一年半、あの風波と戦い、寒暑に耐え、たびたび強敵と相対して生死の間をさまよったこと等は、容易な業ではなかったけれども、考えてみると、これもまた長期の一大演習であって、これに参加し多くの知識を啓発することができたのは、武人としてこの上もない幸せであったというべきであり、どうして戦争で苦労したなどといえようか。

(中略)

また近世に至っては、徳川幕府が太平になり、兵備を怠ると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらってもこれに立ち向かうことができなかった。

(中略)

神明はただ平素の鍛錬につとめ戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安んずる者より直ちに之を奪う。
古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と」

 

 

この訓示は、連合艦隊解散の辞と呼ばれ、連合艦隊(日本海軍)参謀、秋山真之が起草したものです。

 

秋山真之は1867年、伊予松山藩の下級武士の五男として生まれます。

海軍学校を主席で卒業するなど若い頃から頭角を表し、薩摩藩、長州藩出身者が重用される時代に、佐幕派の伊予松山藩出身ながら、日露戦争において連合艦隊の参謀に抜擢され作戦面の全てを任されます。

真之の作戦は見事にはまり、連合艦隊はロシア艦隊を全滅させます。

しかし、真之は一切奢ることなく、勝利を収めた後、連合艦隊が解散する際に全兵士に送った最後の指令が冒頭の連合艦隊解散の辞です。

 

真之は、日露戦争に先立ち、古今東西多くの戦争例を分析し、各先例に共通する基本原則(本質的部分)を導き出し、それをもとに作戦を立てましたが、

そのような分析を通じ、戦後の日本が戦勝国として狂喜すると、先例から予想していたのでしょう。

 

真之は、メモ魔でもあり、日本海海戦でロシア艦隊と砲弾を撃ち合う(砲弾が飛んで来る)状況でも、ノートを取り続けます。

次の戦いの教訓にしようという意図がうかがえ、日露戦争という当時の日本において最大の国際戦争でさえ、真之にとっては「一大演習」に過ぎなかったのでしょう。

 

一方で、真之は、戦後、自分の作戦を遂行する中で多くの兵士が命を失ってしまったと心を痛め、戦勝気分に沸き返る世間に対して講義や講演の中で警告します。

 

残念ながら、連合艦隊解散の辞における真之の理念は、太平洋戦争時の日本軍には引き継がれなかったと言わざるをえません。

太平洋戦争における日本軍は、「無形ノ実力」の意味を履き違え、大和魂によって勝てるなどと根拠のない無謀な作戦を実行、日露戦争時の古い武器でも戦いました。

そもそも、明治の日本は欧米に負けない軍事国家を目指しながらも、伊藤博文らトップはロシアとの戦争を回避しよう、戦争(の期間)を最小限に食い止めようと必死でした。

そのような姿勢が太平洋戦争時のトップには十分には見受けられなかったと言わざるを得ません。

戦勝が、日本軍、ひいては日本国民を狂喜にしてしまったのでしょう。

 

明治日本は、それまで農業しかなかった弱小、貧乏な国家が近代国家たるべく坂の上を駆け上がった時代、大国ロシアに戦いを挑み辛くも撃退した時代、

令和日本も、もう一度坂の上を駆け上がり、「戦ハズシテ既ニ勝テル」、他国から狙われる心配のない豊かな独立国家たるべきであり、憲法9条改正は必要と考えますが、連合艦隊解散の辞を、敗戦の教訓を決して忘れてはなりません。

 

弁護士 臼井義幸

2020年12月吉日、坂の上の雲ミュージアムにて。