「あなたは、自分の正義感を満足させるために証言したいんですか?
それとも、三隅さんを助けたいために証言したいのですか?
三隅さんを助けたいためであれば、(三隅さんの意思を尊重して)証言しないでもらえますか」
映画「三度目の殺人」で、証人尋問直前に、弁護人(福山雅治)が控室で証人(広瀬すず)に言った言葉です。
証人は、「被告人(役所広司)は自分(広瀬)のために殺人をした」と証言したいと言います。
それを知った被告人は、一人で罪をかぶろうと、証人にそのような証言をさせまいと「私は殺していない」と、突如、否認に転じます。
被告人の言動は犯人隠避になり得るものですが(被告人だけでなく証人も十字架のように仰向けになるシーンが、証人も殺人に加担したことを示唆しています)、弁護人はそれを知りながらも被告人の否認を尊重し証人に供述を思いとどまらせます。
その時に弁護人が言ったのが、冒頭の言葉です。
結局、証人は「被告人は自分(証人)のために殺人をした」という証言はしませんでした。
その結果、被告人には「刑事責任を免れるべく理不尽に否認に転じた」などと死刑判決が下されました。
一人で罪をかぶろうとする被告人、それが犯人隠避になり得る状況で、さらに証人の証言があれば無期懲役にもなり得る状況で、そのことを承知で被告人の意思を尊重した弁護人を、それぞれ役所広司、福山雅治が好演していました。
このように被告人が犯人隠避をしようとしている場合に(この映画では被告人も犯人ですが、被告人が全く罪を犯していない身代わりの場合もあります)、弁護人はどうすべきか。
弁護人が社会正義のために存在すると考えれば、このような被告人の意思を尊重すべきではないと言えるかもしれません。
一方、弁護人はあくまでも被告人を弁護する、助けるために存在すると考えれば、被告人の意思に反する弁護活動はすべきではないと言えるでしょう。
どちらにウェイトを置くかの問題ではありますが、私は、この映画の弁護人と同じように、「弁護人はあくまでも被告人を弁護する、助けるために存在する、よって、被告人と十分に協議することが必要であるが、最終的には被告人の意思を尊重すべき」と考えます。
この映画でも裁判官・裁判員は真実をつかめないまま判決を下したように、裁判制度は、真実が何か分からない中で人が人を裁いていかなければ維持できない不完全なシステムであるということを内包していると思います。